diary/Kojima/2011-04-30
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[[diary/Kojima]] ・enlightment ごく個人的なメモ。別に特定の宗教に走ったりするわけではないのでご心配なく(苦笑) 昔からさまざまな宗教や思想について興味をもっていた結果が、"hack" という概念で一つにまとめられそうだ、 という「ハッカー的な悟り」の一事例という感じ。 # あくまで「ハッカー的な悟り」なんで、"ha,ha, only serious" なレベル キリスト教の異端として考えられてきた「グノーシス主義」は、正統的なキリスト教に対する hack である。 同様の hack が仏教にむかったのが禅宗であり、イスラムに向かったのがシーア派である。 従来、これらは「異端」や「神秘主義」という名でまとめられてきたけど、 正統的な価値体系に対する hack は常に存在してきて、それが現代、ソフトウェアの形で表われたのが、 jargon file 等で語られている hack や hack value である。 # AI koan(AI公案)なんて言葉があるように いわゆる「ハッカー(hacker)」と呼ばれる人たちは、先天的にそういう hack の価値を知るように 定められた人たちで、彼らは現在ではソフトウェアの世界での表現を見出しているけど、 かって宗教社会の下では、彼らの思索はそれぞれの宗教の「異端」として考えられていた。 そういう hack の価値(いわゆる hack value)は、論理的に説明できるものではなく、 それを分かる人に分かる、「直指人心 見性成仏」として語られてきた。 人類には、少数ながら常にそういう人たちが存在し続けていたから、 全ての個体が同じ価値観に従う蟻や蜂のような社会性昆虫の持つ「完成した社会」を築き得なかったのであり、 そういう人たちの既存の価値観にとらわれない発想が、人類の「進化」の原動力になっているのではないか。 そう考えると、エデンの園を追いだされた「智恵の実」は、単純な「知識」や「理性」ではなく、 "hack" という独特の智のあり方だと解釈できそうだ。 ここしばらく、某所で非常勤講師をやっていることもあって、「情報社会」というメタな概念をあれこれ 考えてきた結果、hack という言葉の意味を歴史的に考えると、案外普遍的な概念ではないかということに気づいた次第。 ただ、そういう新しい可能性が、新しい可能性として認識されるには既存の「ゲーム」が突破から定着にいたる段階になることも 必要条件として存在していて、そうでない段階で生まれた "hack" は、社会の「異端」として葬られることになったのだろうな。 - キリスト教の世界では、イエスの死と復活について「不合理な故に我信ず」というのが正統派の立場だったと思うけど、そういう解釈に納得できなかった人々がアリウス派のような異端を生み出し、ギリシア哲学の「理性」から解釈するようになったのがいわゆる「グノーシス主義」ではないか、という発想。 -- [[kojima]] &new{2011-04-30 (土) 23:56:56}; - グノーシス主義的な視点で見れば、世界の創造者である kernel が世界の仕組みを作ると共に身を隠して、init というデミウルゴスに現実社会のありさまを委ねてしまう、というUnix系OSの起動メカニズムは、まさにグノーシス主義の神話が語る世界そのものなんだよなぁ。 -- [[kojima]] &new{2011-04-30 (土) 23:59:00}; - そして、個々のアプリケーションは init というデミウルゴスに生起を管理されるけど、その中に真の世界の創造者であるカーネルを呼び出すためのメカニズムが内蔵されている、というのは、まさにグノーシス主義の人間の見方だったりする。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:02:05}; - カーネルは世界を創造するけれど、世界創造後の作業は init に任せて自らは身を隠す、という発想は、カーネルレベルの処理とユーザレベルの処理を区別するという技術的必然から生まれたものだとは思うけど、それは「理想の世界」と「現実の世界」の差異の解釈に苦しんだグノーシス主義の世界観と共通するという印象。その意味でグノーシス主義というのは、初期キリスト教とは異なる土壌のギリシア哲学の中から生まれてきたのだろうし、禅というのも仏教が中国に普及していく中で、中国の道教が考える「無」という概念と結びつくことで誕生した仏教の異端という気がする。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:20:18}; - それらの発想の根底に "hack"という、既存の価値体系に従わずに独自の価値を求めようという動きを置くことができるのではないか、というのが今回のひらめき。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:22:48}; - そういう風に考えると "hack" というのは、別にソフトウェアの可能性を探るハッカーの特性としてのみ考えるべきではなく、広く人類社会において新しい可能性を探る試みとしてとらえることができるのではないか。そう考えると、「フリーソフトウェア」の意味を力説するStallmanが、小鳥に説教するアッシジの聖フランシスコと同じ位相にあるように見えてくる -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:27:07}; - 多分、既存の世界観に対するアンチテーゼというのは常に一定の割合で存在するのだけど、一つの価値観が「誕生」から「出現」する段階ではそれらの可能性の中から一つを選びだすような段階で、選ばれた価値観が「突破」の段階で定着する段階ではそれ以外の可能性はほとんどかえりみられることが無いけれど、その価値観が「成熟」段階に入ることで、新たな可能性に光が当たり、次のゲームが始まる、というのが人類の歴史の流れじゃないか -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:47:12}; - そう考えると、現代社会において価値観が多様化しているのも必然であり、それら多様な価値観を制限しようとする流れ(例えば東京都の青少年健全育成条例)は時代の波を阻害しようとしているように見える。一方、そういう阻害する要因があることによって、時代の波の方向を確認することもできるわけで、そう考えると「都の条例」というのは、大きな波に乗り続けながらそれをいかに回避するか、というテクニカルな問題のように思える。別に都の条例を支持するつもりはないけど、歴史的に見ても(江戸時代の黄表紙本に対する弾圧のように)そういう障害をかいくぐるように発展してきたのが「文化」なのであり、そういう障害で滅びてしまうものは滅びるしかないのかな、という気もするところ。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 01:02:23}; #comment
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[[diary/Kojima]] ・enlightment ごく個人的なメモ。別に特定の宗教に走ったりするわけではないのでご心配なく(苦笑) 昔からさまざまな宗教や思想について興味をもっていた結果が、"hack" という概念で一つにまとめられそうだ、 という「ハッカー的な悟り」の一事例という感じ。 # あくまで「ハッカー的な悟り」なんで、"ha,ha, only serious" なレベル キリスト教の異端として考えられてきた「グノーシス主義」は、正統的なキリスト教に対する hack である。 同様の hack が仏教にむかったのが禅宗であり、イスラムに向かったのがシーア派である。 従来、これらは「異端」や「神秘主義」という名でまとめられてきたけど、 正統的な価値体系に対する hack は常に存在してきて、それが現代、ソフトウェアの形で表われたのが、 jargon file 等で語られている hack や hack value である。 # AI koan(AI公案)なんて言葉があるように いわゆる「ハッカー(hacker)」と呼ばれる人たちは、先天的にそういう hack の価値を知るように 定められた人たちで、彼らは現在ではソフトウェアの世界での表現を見出しているけど、 かって宗教社会の下では、彼らの思索はそれぞれの宗教の「異端」として考えられていた。 そういう hack の価値(いわゆる hack value)は、論理的に説明できるものではなく、 それを分かる人に分かる、「直指人心 見性成仏」として語られてきた。 人類には、少数ながら常にそういう人たちが存在し続けていたから、 全ての個体が同じ価値観に従う蟻や蜂のような社会性昆虫の持つ「完成した社会」を築き得なかったのであり、 そういう人たちの既存の価値観にとらわれない発想が、人類の「進化」の原動力になっているのではないか。 そう考えると、エデンの園を追いだされた「智恵の実」は、単純な「知識」や「理性」ではなく、 "hack" という独特の智のあり方だと解釈できそうだ。 ここしばらく、某所で非常勤講師をやっていることもあって、「情報社会」というメタな概念をあれこれ 考えてきた結果、hack という言葉の意味を歴史的に考えると、案外普遍的な概念ではないかということに気づいた次第。 ただ、そういう新しい可能性が、新しい可能性として認識されるには既存の「ゲーム」が突破から定着にいたる段階になることも 必要条件として存在していて、そうでない段階で生まれた "hack" は、社会の「異端」として葬られることになったのだろうな。 - キリスト教の世界では、イエスの死と復活について「不合理な故に我信ず」というのが正統派の立場だったと思うけど、そういう解釈に納得できなかった人々がアリウス派のような異端を生み出し、ギリシア哲学の「理性」から解釈するようになったのがいわゆる「グノーシス主義」ではないか、という発想。 -- [[kojima]] &new{2011-04-30 (土) 23:56:56}; - グノーシス主義的な視点で見れば、世界の創造者である kernel が世界の仕組みを作ると共に身を隠して、init というデミウルゴスに現実社会のありさまを委ねてしまう、というUnix系OSの起動メカニズムは、まさにグノーシス主義の神話が語る世界そのものなんだよなぁ。 -- [[kojima]] &new{2011-04-30 (土) 23:59:00}; - そして、個々のアプリケーションは init というデミウルゴスに生起を管理されるけど、その中に真の世界の創造者であるカーネルを呼び出すためのメカニズムが内蔵されている、というのは、まさにグノーシス主義の人間の見方だったりする。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:02:05}; - カーネルは世界を創造するけれど、世界創造後の作業は init に任せて自らは身を隠す、という発想は、カーネルレベルの処理とユーザレベルの処理を区別するという技術的必然から生まれたものだとは思うけど、それは「理想の世界」と「現実の世界」の差異の解釈に苦しんだグノーシス主義の世界観と共通するという印象。その意味でグノーシス主義というのは、初期キリスト教とは異なる土壌のギリシア哲学の中から生まれてきたのだろうし、禅というのも仏教が中国に普及していく中で、中国の道教が考える「無」という概念と結びつくことで誕生した仏教の異端という気がする。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:20:18}; - それらの発想の根底に "hack"という、既存の価値体系に従わずに独自の価値を求めようという動きを置くことができるのではないか、というのが今回のひらめき。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:22:48}; - そういう風に考えると "hack" というのは、別にソフトウェアの可能性を探るハッカーの特性としてのみ考えるべきではなく、広く人類社会において新しい可能性を探る試みとしてとらえることができるのではないか。そう考えると、「フリーソフトウェア」の意味を力説するStallmanが、小鳥に説教するアッシジの聖フランシスコと同じ位相にあるように見えてくる -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:27:07}; - 多分、既存の世界観に対するアンチテーゼというのは常に一定の割合で存在するのだけど、一つの価値観が「誕生」から「出現」する段階ではそれらの可能性の中から一つを選びだすような段階で、選ばれた価値観が「突破」の段階で定着する段階ではそれ以外の可能性はほとんどかえりみられることが無いけれど、その価値観が「成熟」段階に入ることで、新たな可能性に光が当たり、次のゲームが始まる、というのが人類の歴史の流れじゃないか -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 00:47:12}; - そう考えると、現代社会において価値観が多様化しているのも必然であり、それら多様な価値観を制限しようとする流れ(例えば東京都の青少年健全育成条例)は時代の波を阻害しようとしているように見える。一方、そういう阻害する要因があることによって、時代の波の方向を確認することもできるわけで、そう考えると「都の条例」というのは、大きな波に乗り続けながらそれをいかに回避するか、というテクニカルな問題のように思える。別に都の条例を支持するつもりはないけど、歴史的に見ても(江戸時代の黄表紙本に対する弾圧のように)そういう障害をかいくぐるように発展してきたのが「文化」なのであり、そういう障害で滅びてしまうものは滅びるしかないのかな、という気もするところ。 -- [[kojima]] &new{2011-05-01 (日) 01:02:23}; #comment
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